「葆光」の由来
教室の同窓会は「葆光会」(ほこうかい)と称する.この「葆光」という言葉は,《荘子》の齊物論に登場する.
故知止其所不知,至矣.
孰知不言之辯,不道之道.
若有能知,此之謂天府.
注焉而不滿,酌焉而不竭,
而不知其所由來,此之謂葆光.
(故に知は其の知らざる所に止まれば至れり.
たれか不言の弁,不道の道を知らん.
もし能く知ること有らば,これを天府という.
これに注げども満たず,酌めどもつきず.
しかも其のよりて来たる所を知らず.これを葆光という.)
その意味するところは...
人間の知性は,これ以上知ることができないという所に達して,はじめて極めたということができる.言葉として聞こえない言葉,道として見えない道を知ることができるだろうか.もしそれができれば,それは自然の境地である.そこでは,いくら注いでも溢れることなく,いくら酌みだしても尽きることがない.この境地が葆光である.
おそらく藤浪は,この葆光という言葉に,人類の叡智としての放射線医学への希望を託したものであろう.